独り言的な話23年5/26
たいして実のない独り言です。
ついでに人それぞれな話だと思います。
まず、私は独りでいる時間は割と嫌いな方ではありません。
そして誰かと共に行動するのであれば、できれば二人が好ましいです。
3人は嫌いではないのですが、例えば喫茶店に入ったとして、4人テーブル席に座るとすると向き合った2人とオマケの1人もしくは、2対1的な構図になるし、3人とも皆同じ熱量の話って少なく思えるからです。
時々(自分というか、人はなぜ生きているは極論になるので、何かしらの行動するのか?そしてそれは何の為に…?)みたいな事を考えながら散歩して他人を眺めては比べ自らを顧みたり、省みたりしています。
つまり過去の自分の行動を思いだしながらそれらの行動原理を探ったりしています。
街中でイチャイチャしている若者や中年カップル、いつも同じ所に座って通行人達に話しかけているじいさん等静かに観察しながらテクテク歩いています。
彼らの行動の理由を自分に置き換えたりしながら眺めているととても面白いです。
詳しく書くと長い話になるので、辿り着いた結論は、全ての行動原理は”私を見て”に収束されるのではないか?と思う様になりました。
常に誰かに見られたいという大前提の元に私も生きているのかもしれません。
分かりやすい例えとすれば、奇抜な服装をするのも地味に着飾るのも根本は人の目に映る自分がある訳で、きっと全ての行動に繋がってくるのではないかな?…と。
だから大人数でいるのが好きな人、私の様に少人数が好きな人、もし仮に違いがあるとすれば、自らに対する観測者の大小であり、但しあくまで見られている自分は独りだけなのです。
“我思う、故に我在り”に近いのかもしれませんね。
だから時々行きたくなるのですが、一人旅ですら見知らぬ地で、たった一人でいる私を何処かの誰かが見ているかもしれないと俯瞰的にとらえているのが落ち着くし、納得満足するのかもしれません。
“あなたを見るから、私を見てください。”
そんなシンプルな原理が人を人として形成しているように思われます。
SNSで夢中になって切り取った自分の時分を発信するのも、何ならこれを書いている私自身も、そんな感じなのかもしれません。
SNSの中ではいつも自分はヒーローインタビューであったり、シンデレラだったりするのかもと思う今日この頃です。
(´・д・`)
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